INTERVIEW
特別インタビュー

トライアスロン選手
井出 樹里
1983年東京都出身。
8歳で競泳を始め中学・高校時代には全国大会へ出場。大学入学後は陸上部に所属した。在学中に知り合ったナショナルチームの監督から声がかかり、2006年トライアスロンの道へ。2年後の北京オリンピックでは日本人トライアスロン選手として初の5位入賞を果たす。
徳之島へ移住したことをきっかけに、2024年日本企画とスポンサー契約を締結した。
日本企画がスポンサーを務める井出 樹里選手にインタビューを行いました。
徳之島との出会いを教えてください
以前は相模原を練習拠点にしていましたが、コロナ禍の影響で活動が制限されてしまった時期に、徳之島で1か月半ほど合宿をさせていただきました。その時が徳之島との初めての出会いだったのですが、もう大好きになってしまったんです。それまでいくつもの国や地域に遠征してきて、素敵だなと感じる場所はたくさんありましたが、徳之島に訪れた時は、もう帰りたくないと思うくらいでした。「ここが自分の居場所だ」そう思っていたら、1年半後には移住が決まりました。
トライアスロンはどのような経緯で始められたんでしょうか
6歳の時に水泳を始めて、8歳で競泳の育成コースに入りました。その頃に「オリンピックで一番になる」という夢を持ったんです。それから高校3年生まで続けていました。だけど一番得意だった100メートル自由形では中学3年生以来自己ベストを更新できず、また高校最後のインターハイでは個人種目に一つも出場できませんでした。「やれることは全部やった」「もう頑張れない」そう感じて、競泳は引退しました。
引退したその年、当時中学3年生だった弟は全国大会で2位になり、幼い頃から毎日一緒に泳いでいた親友はインターハイで優勝しました。大切な人達が喜ばしい結果を出しているにもかかわらず、私はそれを素直に喜ぶことができなかったんです。まだ自分の中に競技への未練があるのだと感じました。
「このまま競技の世界に戻らなかったら、自分はどんどん嫌な人間になっていく」「だからもう一度戻らなくてはならない」競泳の他に何ができるだろうかと考えた時に、陸上の長距離だったら水泳で培った心肺機能が生かせるのではないかと思いました。そこで大学では陸上部へ入部しました。

活動中、トライアスロンのナショナルチームと合同練習をする機会がありました。足を痛めて走れない時、私はよくプールでトレーニングを行っていたのですが、ナショナルチームの監督が私の泳いでいる姿をご覧になって「陸上部にしてはなかなか泳げるな」と思ってくださったみたいなんです。監督は陸上部の顧問から「井出は競泳上がりなんです」という話を聞いて、少し気にかけてくださるようになりました。
大学2年の夏、監督から「俺と一緒にオリンピックでメダルを目指さないか」と声をかけられました。
それまで私がオリンピックで戦う未来を信じてくれていたのは母だけでした。私の通っていたスイミングスクールでは、全国大会で優勝するレベルの選手がたくさんいたので、いくら私が「オリンピックに行きたい」と言っても「いや、樹里は無理」と思われていたんです。だから監督に声をかけられた時、初めて母以外の人に夢を認めてもらえたと感じました。
トライアスロンという未知の競技に踏み込む不安がなかったわけではありません。だけど8歳からの夢を叶えるチャンスが今目の前にあると思ったら、喜びや楽しみの方が遥かに大きかった。気がついた時にはもう「やります」と答えていました。
やると決めたら迷いはありませんでした。一番になるつもりでこの世界に入ったので、どうしたら自分がそこに立てるかだけを考えてトレーニングする日々でした。
競泳、陸上と経験されてきて、トライアスロンならではの魅力はどのような点にあると感じますか
トライアスロンは個人競技ですが、自転車に乗っている最中は同じ集団にいる選手が仲間になります。
例えば先頭集団の場合は、少しでも後方集団を引き離せるように、一番空気抵抗を受けて苦しい場所を交代しながら進んでいきます。後方集団の場合は、ペースの落ちそうな選手がいたら声をかけたり、途中でチェーンが切れてしまった選手がいたら背中を押したりして、少しでも先頭集団に追いつけるように協力します。
試合中に絆を感じることは、他の個人競技ではなかなか見られないトライアスロンの魅力の一つではないかと思います。
北京オリンピックへ出場した当時はどのようなお気持ちでしたか
北京オリンピックは、私がトライアスロンを始めてから2年後に開催された大会です。
周囲からは「2年で出場なんて無理だ」という声の方が多かったです。それでも私の目標は出場することではなく、そこで勝負して一番になることでした。その一心で取り組み、結果代表に選ばれることができました。
どんなに数多くの国際大会を経験している選手も「オリンピックは別物だ」と言います。「前日の夜は眠ることもできず、スタート直前は手足が震える」そう聞いていたから、自分も同じ状況になるだろうと思っていました。
だけど当日は「腹が据わるとはこういうことか」と感じるくらい、今まで出場したどのレースよりも落ち着いていました。レース前のウォーミングアップで会場のダム湖に飛び込んだ瞬間、自分の体と水の境目が無くなったんです。水と一体になった感覚でした。「あぁこれはいける」と確信を持ち、そのままレースに挑みました。
結果は5位でした。ゴールした瞬間は悔しくてたまらなかった。ただ北京に挑むにあたっては一番になるという他に、皆さんの喜んだ顔を見たいという目標がありました。スタンドで応援してくださっていた方の顔を見た時や、帰国してから笑顔で「おめでとう」と声をかけていただいた時、その目標は達成できたと感じ、喜びが込み上げてきました。

逆境の中で、どのようにモチベーションを保っていたのでしょうか
私には常に目標があり、なりたい自分がいるんです。だからモチベーションが極度に落ちてしまうことはありません。
上手くいかない時は必ず「じゃあどうする?」と自分に問いかけます。最終的にはやるか、やらないか。その二択です。だから何となく過ごしてしまうのではなく、必ず決断する。そうすることで、また一歩力強く踏み出せると感じています。
井出さんが挑戦を前向きに捉えられるようになったきっかけは何ですか
私が今も挑戦を続けていられるのは、母の存在があったからです。
私には兄と弟がいるのですが、二人とも何でもすぐにできてしまうタイプなんです。でも私はそうではありません。人が1回でできることを10回やってもできない。だけど15回やったらできるかもしれない。それなら15回やろうと、コツコツ練習するタイプです。
母はまず私のその姿勢を褒めてくれました。そしてできるようになると、一輪車でも逆上がりでも、どんなことでも物凄く喜んでくれたんです。そんな母を見る内に「もしも自分が世界で一番になったら、大好きな母はどれだけ喜んでくれるんだろう」と思うようになりました。
なりたい自分を目指す中で、苦しいことはたくさんあると思います。だけどそれが叶った時、自分だけでなくその姿を見てくださっていた人まで幸せにすることができる。それはとても価値のあることではないでしょうか。
今後の目標を教えてください
まずは2028年ロサンゼルスオリンピックの舞台に立ちたいです。もちろん出場するだけで満足ではありません。私はまだ北京オリンピック当時の自分を超えられると信じています。
この年齢まで競技を続けさせていただいていることは奇跡です。私のロスで走る姿を、日本企画の皆様や支えてくださっている方々に見ていただき、結果とともに感謝の気持ちをお伝えしたいです。そして8歳の時の自分が、困難な道だと知りながらも覚悟を持って競技の道へ進んでくれたおかげで、私は今こんなに幸せな人生を歩めています。だからあの頃の自分にも「ありがとう」と伝えたい。そんな選手であり、そんなレースをしたいなと思います。
